11月4日「遠つ飛鳥の自転車巡り」              <レジュメ>

●下記の文は、「国営飛鳥歴史公園」ホームページに記載されている。

「飛鳥地域とは」のタイトルでトップページに記されている説明書きです。

“あすか”という地名のいわれについては、古墳時代から我が国に移住した、たくさんの渡来人たちが、さすらいの果てに得た安住の地であるという意味で、「安宿」と名づけたのが転じたともいわれ、さらにその枕詞に使われていた「飛鳥」をも“あすか”と読ませることになったという説が立てられています。 
地名をもって時代名としているのは、日本史上これが初めてのことです。 
飛鳥地域は、現在の奈良県高市郡明日香村周辺の地域を指します。また、大阪府羽曳野市飛鳥周辺が「近つ飛鳥」と言われるのに対し、明日香村周辺は「遠つ飛鳥」と言われています。これは「古事記」の記載の中で、履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が難波から大和の石上神宮に参拝する途中で二泊しその地を名付けるのに、近い方を「近つ飛鳥」、奈良県の遠い方を「遠つ飛鳥」と示したことによります。

 

画像:飛鳥エリアマップ 

 

@     高松塚古墳の被葬者

以前、奈良新聞に高松塚古墳の被葬者について、著名な12名の歴史学者が各々の見解を述べていました。

  <主な被葬者の候補は9人>

忍壁皇子 天武直系の皇子

弓削皇子 天武天皇の第9皇子(第6皇子とも)

高市皇子 天武天皇の皇子(長男)

葛野王   弘文天皇の第一皇子

天武の皇子・皇女

石上麻呂  弘文天皇の側近(元は物部氏)

高句麗の王族

百済王禅広(善光)

 

 この中で、国際文化研究センターの千田稔教授(考古学)が唱えたのが、百済王禅広(善光)です。

 百済王禅広(善光)について、四天王寺ワッソのパンフレットに説明がありましたので、記したいと思います。

 「百済王善光は、現在の大阪氏東住吉区付近に一族とともに住んでおりました。その辺りは摂津国百済郡と呼ばれ、現在も貨物駅「JR百済駅」や百済公園という名を残します。」

 また、千田教授はキトラ古墳の被葬者を禅広(善光)の子と推測しております。

 

A     ●於美阿志(おみあし)神社・檜隈(ひのくま)寺跡

桧隈は、百済から渡来した阿智使主(あちのおみ)が居住したと伝えられ、於美阿志神社はその阿智使主を祭神とする。桧隈寺跡は、その神社の境内にあり、塔・講堂と推定される建物跡をのこす。「日本書紀」天武天皇朱鳥元年の条に桧隈寺の寺名がみえ、寺跡からは、7世紀末の瓦が出土する。現在塔跡にある十三重石塔は上部の一部を欠いているが重要文化財に指定されている。 −於美阿志神社の境内案内より−

この地域は東漢氏の本拠地で、神社の祀神である始祖の阿智使主は、阿直伎という人物と同一視されております。阿直伎は、百済王の命により馬2頭を連れて、倭に渡ってきたとされる人物で、莵道雅郎子(応神の子)の師となり、王仁(わに)博士を推挙したと伝えられております。

実は、平野区の杭全神社は、坂之上田村麿の子、広野に由来するのですが、坂之上家は東漢氏の出で渡来系氏族であります。杭全神社から百済川(現平野川)を辿ると飛鳥の地に着きます。

もしかしたら、祖の阿直伎は平野の辺りに住んだことがあるのかも知れません。

 

●呉津彦(くれつひこ)神社

kuretsuhiko渡来人が檜隈の地に住み移って来たのは、雄略天皇二(475)年、身狭村主 青、檜隈民使 博徳がはじめとのこと。 雄略八(481)年、“青”と“博徳”は呉に渡り、漢織・呉織・衣縫を連れ帰ったとされる。

檜隈は明日香村の南側の狭い領域であり、かって渡来した阿智使主一族が高市郡に住んでいた所へ、身狭村主 青、檜隈民使 博徳が更に織機技術を持った者達を率いて、身狭村主青は少し北側の牟佐座神社の当たりを中心に居住し、檜隈民使博徳は檜隈を中心に居住したものと考えられている。

その織物の技術者を祀ったとされるのが、於美阿志神社のほど近くにある呉津彦神社です。

 

 ●キトラ古墳

墓室には星図と四神図を描かれております。

被葬者を断定することはできませんが、星図のどこから見あげた空なのかは、すでに解明されて下ります。

平壌の辺りから、見あげた空だと言われています。


B ●飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)--大化の改新の舞台

642年に、皇極天皇の命により造営された宮跡。また大化改新の発端となった蘇我入鹿暗殺の舞台。

名の由来は、当時貴重品であった板で屋根が葺かれていることから。

 

 ●飛鳥京・苑池遺構

飛鳥京とは? 6世紀末の推古朝から7世紀末の天武朝にかけて、飛鳥地方(現在の奈良県高市郡明日香村)に諸天皇の宮殿が置かれており、これらの都の総称。豊(とゆら)宮、小墾田(おはりだ)宮、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋(いたぶき)宮、飛鳥川原宮があったとされる。近年の発掘調査で、飛鳥板蓋宮伝承地は7世紀中ごろから後半にかけ、同じ場所に皇極朝の飛鳥板蓋宮、斉明朝の後飛鳥岡本宮、天武朝の飛鳥浄御原(きよみはら)宮の各宮殿が建て替えられた可能性が強まっている。

 

 

 

●日本最古の本格庭園(白錦後苑/日本で最初の動物園)

 奈良県明日香村岡の飛鳥京跡で飛鳥時代(7世紀後半)の大規模な池の遺構が見つかり、発掘調査している県立橿原考古学研究所が1999年7月14日発表した。 池は石積みの護岸を巡らせ、水の流れを楽しむ精巧な石造物や中島を配置。 同研究所は日本最古の本格的な庭園跡とみており、日本書紀(685年)に天武天皇が「白錦後苑」に行幸したとあり、後苑は宮殿の北を示すため、位置関係も一致し、白錦後苑(しらにしきのみその)の可能性があるという。 朝鮮半島の古代国家・新羅の庭園にも類似。都城史や庭園史上の一級の発見であるとともに、当時の国際情勢、飛鳥の都市計画を考える上でも貴重な資料。

 

C ●飛鳥寺

  飛鳥寺は588年に百済から仏舎利(遺骨)が献じられたことにより,蘇我馬子が寺院建立を発願し,596年に創建された日本最初の本格的な寺院。

 法興寺・元興寺ともよばれた。現在は安居院(あんごいん)と呼ばれている。

  馬子が仏舎利を献納する時に、石舞台古墳の近くにあった馬子の邸宅から100人以上で百済の衣装を身に纏い、行列を成したとされる。

 

 ●蘇我氏系譜 (※満智を百済の権臣木満致に同一人物とする説が有力視されている。)

蘇我満智(まち)←蘇我韓子(からこ)←蘇我高麗(こま)←蘇我稲目(いなめ)←蘇我馬子(うまこ)←蘇我蝦夷(えみし)←蘇我入鹿(いるか) ※権臣:権勢・権力をもった臣下) ※木満致の渡日は470-480年頃に往来している。


D 飛鳥時代の服装

上の写真は、明日香村の飛鳥博物館で展示されている“飛鳥時代の服装”のようです。

ただ、これは高仁鳳氏がポスターを撮影されたそうで、普通は撮影できないのかも知れません。実は右側の女性の衣装は百済のチマチョゴリであり、左側が新羅のチマチョゴリのデザインと推測されます。

永六輔氏がこのようなことを述べております。氏は、自分のチョゴリとの出会いを乙姫様であるといい、乙姫様は新羅の人であると、推測していました。

この写真と下のイラストを比較して見て下さい。

確かに浦島太郎の記念切手に出てくる乙姫様の衣装とよく似てますね。

 


 

 

 

 

付録

蘇我氏が百済系というのは、歴史研究者の中では常識なりつつある。そして天皇家との関係もとても深い。

 

●遠つ飛鳥の天皇陵

29代 欽明大王(きんめいおおきみ)在位:539-571

40代 天武大王(てんむおおきみ)在位:673-686年  ※天武と持統は夫婦

41代 持統大王(じとうおおきみ)在位:686-697年  女帝

42代 文武天皇(もんむてんのう)在位:696-707

天皇系図 26代 - 37代
 

 


天皇系図38〜50代

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●近つ飛鳥の天皇陵

30代 敏達大王(びだつおおきみ)在位:572-585

31代 用明大王(てんむおおきみ)在位:585-587

  ※用明と推古は夫婦

33代 推古大王(じとうおおきみ)在位:592-628年 初の女帝

 

※近つ飛鳥には聖徳太子(しょうとくたいし)の墓があります。

 聖徳太子は、31代用明大王の子で、父方も母方も祖母は蘇我氏で、
本人も蘇我馬子の娘と婚姻しています。

 

天皇家と百済に関係する出来事


26代 継体大王の就任1500年を祝って、今年福井県でイベントが開かれ、継体王は百済から来たというのが通説

30代 敏達大王は百済大井宮(おおいのみや)を造営。記紀に「敏達の孫が百済王なり」という記述もある。

33代 舒大王(じょめいおおきみ)在位:629年-641年  ※舒明と皇極・斉明は夫婦

舒明11年(639)に百済川のほとりに百済大宮と百済大寺を造営し、そして百済大宮に住まう(現桜井市)

35代 皇極大王(こうぎょくおおきみ)在位:642年-645年     645年「大化の改心」

37代 斉明大王(さいめいおおきみ)在位:655年-661年  ※皇極・斉明は同一人物で女帝

660年、百済滅亡時に百済大井宮に住まい、気が狂うほど憂いたと伝えられております。

38代 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)こと天智大王は、舒明と皇極(斉明)の子で、663年百済国復興を支援するため、27000名を率いて朝鮮半島に出兵するが大敗。