3日・4日共通資料 百済との主な関係年表
397年頃: 腆支(直支)王子が八須夫人と供に渡日する。405年に帰国し18代百済王となる。腆支こそが現生野区に林寺を建立し開拓した林史(はやしのふみと)の祖である。
404年: 阿直岐 (あちき:阿知吉師や阿智主ともいう)が雄馬雌馬各1、横刀と大鏡を持って渡日する。
応神の子、菟道稚郎子皇子の師となる。そして王仁博士を推挙した人物とされる。
405年: ◆王仁博士が百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる伝説的な人物。王仁は日本文化の恩人と評される人物で、戦前の教科書では教えられていた。
◆王仁と共に渡日したのが、葛井寺の祖とされる辰孫王(王辰爾)である。
◆17代の阿莘王がこの年に亡くなり、腆支王子は百済に帰国、18代百済王となった。
461年: 21代蓋鹵王(455~475)の弟、琨伎王が渡日する。琨伎は飛鳥戸氏の祖。
475年: ◆百済滅亡。高句麗の長寿王が3万の軍勢を連れて漢城(現ソウル)を攻撃し、21代蓋鹵王が死に、この時に一度百済は滅んだものと考えられる。
◆この戦争以降、忽然と姿を消したのが木満致であり、木満致は渡日していた。木満致は蘇我氏の祖(蘇我満智)とされる人物である。
◆この年に、飛鳥戸氏の祖である琨伎王は百済に帰国する。
なると琨伎王は百済に帰国している。この時に、百済国は一度消滅したものと考えられている。
479年 琨伎王の子、東城王が24代百済王となる。
501年 九州筑紫の島で生まれたとされる武寧が25代の王となる。
507年 百済系とされる継体(天皇)が倭の大王となる。
555年 当時まだ王子であった恵王(後の28代王)が、聖王(26代)の死を告げる使者として渡日する
575年 敏達大王が、百済大井宮を建立する。
587年 蘇我馬子は、飛鳥寺(法興寺)を造営し仏舎利を奉納する際、100人以上の従者と共に百済の衣装を身に纏ったとされる。
597年 威徳王の子、琳聖太子(阿佐太子)が渡日。星信仰(妙見)を伝承させた人物。★
631年 31代義慈王(最後の百済王)の子、豊璋が渡日する。
639年 舒明は639年7月、百済川の辺(現桜井市の吉備池廃寺址)に百済大宮・百済大寺を造営。
645年 大化の改心、百済系氏族とされる蘇我入鹿が、中大兄皇子と中臣(なかとみの)鎌足に謀殺される。
660年 百済大宮に住んでいた37代斉明大王(女帝/舒明の妻、35代の皇極と同一人物)は、百済滅亡の知らせに、気が狂わんばかりに嘆いたとされます。
663年 舒明と斉明の子で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)こと38代天智大王は、百済の王子“豊璋”と供に27000名の兵を引き連れ、百済国の復興を願い白村江の闘い挑むも敗れて、日本に戻る。豊璋は高句麗に逃げたとされる。
★降星伝説(山口県下松市の伝説)
それでは、下松市が「星ふるまち」と呼ばれることになる、伝説を紹介しましょう。
595年推古天皇3年(17年説もあり)、9月18日、周防国鷲頭庄青柳浦(わしづのしょう・あおやぎのうら)にある松の大木に突如星がおり、七日七晩輝きました。里人は不審に思い、巫女に星の精を呼び出させたところ、「我は北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)である。これから3年後、百済の国の琳聖(りんしょう)太子が、聖徳太子に合うために来日されるので、お守りするためにやってきたのだ」と語ったといいます。
星の予言通り、推古5年、琳聖太子は来日し、聖徳太子に会われました。この不思議な星の話を聞いた琳聖太子は、青柳浦に立ち寄られ、北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、桂木山に建立し、日本で初めての星祭りをおこなった、とされています。そして、星が松に下った霊地として、青柳浦は下松と呼ばれるようになったと伝えられています。
なお、琳聖太子は、多々良姓を賜って日本に帰化し、後に西国一の大名になる大内氏の祖先になったという話もあります。